2014年4月18日
2014年3月3日
第一回 元東宝映画 代表取締役社長 プロデューサー 富山省吾氏
――「ゴジラ」の原体験についてお教えいただけますか。
富山省吾(以下、富山)
一番最初に見たのが、小学校4年生の時の「キングコング対ゴジラ」。シネスコカラーでこれ以上面白い物はないっていう気持ちでワクワクドキドキしながら観ました。キングコングとの対決シーンにユーモアもあって、もう最高だった。「キンゴジ」は東宝創立30周年記念の豪華大作。映画としての面白さとゴジラの魅力が一杯詰まった贅沢なファーストコンタクトでした。
最初に観た映画として記憶に残っているのが「日本誕生」で、その次が「世界大戦争」。家族に連れられて東宝の特撮映画を観始めて、小学五年の夏に友達と一緒に「マタンゴ」を観に行った。空想科学小説が好きな子供だったから、ゴジラと東宝特撮に出会えたのは幸せだった。
――ゴジラ映画には、どのような関わり方をされていましたか?
富山1986年から田中友幸プロデューサーのアシスタントとして、「ゴジラVSビオランテ」の脚本の開発を(監督の)大森一樹さんと始めたのがスタートで、それから2004年の「ゴジラ ファイナル ウォーズ」まで、12本のゴジラシリーズの企画製作をやりました。僕が田中プロデューサーからアシスタントに指名されたのは、同世代の大森さんと若い者同士で台本開発をするように言われて。「84ゴジラ」は怖いゴジラの復活を目指し、重厚な政治劇でありつつサスペンスとしても高い完成度ですが、もっとスピーディーでエンタテインメント性が高いゴジラ映画を作りたいというのが「84ゴジラ」後の田中プロデューサーの方針で、スタッフを入れ替えて大森さんと(特技監督の)川北紘一さんと3人で始めたという流れですね。
――具体的な関わり方は?
富山ゴジラ映画というのは本多・円谷時代から本編と特撮を分けた作り方をしていて、そのやり方を踏襲しながら全体を見る立場の人間として、企画の段階から始めて台本を作って準備・撮影・完成まで持って行くというのがプロデューサーの仕事です。1本1本どういう内容にするかは東宝本社にフィードバックして相談しながら決めて行きました。毎年ゴジラ映画を作るって結構飛んでもない事でね(笑)。その流れの中で、方針を出して決めていくのは結構大変でした。それと製作プロダクションたる東宝映画の人間として、完成保証をして予算とスケジュールと作品の質を守る事を目標にしていました。
――ゴジラ映画を作る中で、印象に残っている出来事については?
富山
長くやっていたんで沢山あるんですけど、やっぱり90年代のVSゴジラ時代は東京国際映画祭の招待作品として必ず上映してたので、それに間に合わせるというのは途轍もなく大変な事でした。どんどん合成カットが増えていた時代で、デジタル化の先駆けをゴジラ映画でやっていたという事もあって、映画祭に間に合わせるっていうのがスタッフ一同いかに大変だったか!
当時、9月下旬から10月に映画祭があって、封切はまだまだ先。そうすると映画祭中は仕上げの真っ最中なわけ。そういう状況なので、このカットは一旦仕上げて映画祭はこれでいって、後で劇場公開版としてやり直すという事を毎回やっていた。そのカットを映画祭の祭って漢字に丸をつけてマル祭って呼んで。今と違って、その都度ネガからやり直さなきゃいけないやり方で合成カット作りをしていた時代なので、データが保存されていて、それをブラッシュアップしていけばいいっていう風にならない。
そういうマル祭が何十カットもあって、とりあえず映画祭版を完成させて、それで次をゼロからやる事になるわけ。仕上げスタッフは本当に大変だった。
――しかも宣伝も期間が短いから、かなりタイトですよね?
富山でもね、封切る時に来年の予告編を後付けで上映するわけ。お客さんもわかっていて待ち構えてドッと湧く。こうして次のゴジラに向かって盛り上がり始めるっていう流れがあった。90年代はやっぱりゴジラと寅さんがよく頑張った時代だったと思いますね。
――毎年上映作品を作っていく中で、次のゴジラ作品の企画開発のタイミングは?
富山
クランクアップして仕上げになって、さっき言ったマル祭とかをやっている頃が次の企画・ストーリーの開発を始める時期なんですよね。
「ビオランテ」から「ファイナル ウォーズ」までの大きな流れを説明すると、「84ゴジラ」があって「ビオランテ」でストーリー募集して、オリジナル怪獣で対決モノを始めた。映画のタッチとしては大森さんでスピーディーなエンタテインメントを目指した。田中友幸プロデューサー的には満足いく部分もかなりあったけど、「ビオランテ」は興行収入は今一つ物足りない伸びだった。でもこれは続けなきゃいけないという事を本社の上層部と配給サイドが早く決めてくれたので、じゃあどう続けるかと。
まず対決モノでいく事を決めて、これだけ魅力ある怪獣たちがいるのだから一体ずつ出してこうという考え方になり、一番手何にするんだ?と。それはキングギドラでしょう。ではキングギドラについて内容をどうしていくか。昔でいえば宇宙怪獣だけど、それを今風にどういうシチュエーションに変えるかっていうのは僕の方でやらせてもらう事にして、大森さんと相談しながら脚本作りに入りました。
対決もので行く事を決めて、ファミリーで観てもらうという事も決めて、怪獣の順番は一番手はキングギドラ、次はモスラ、その次はメカゴジラ。人気投票を劇場でしてるんで割とすんなり決まった。この毎年の流れの中でトライスター版ゴジラがハリウッドで製作されるっていう別のゴールが見えてきて、「VSメカゴジラ」で1度終わる予定で作った。で、トライスター版が次の年にあるなら「VS メカゴジラ」にラドンまで出しちゃおうって。キャラクター全部リニューアルしたかったのでそう決めて、じゃあどういう話にする?って言ったら、脚本の三村氏が<托卵>のアイデアを出してくれて。それで「VSメカゴジラ」は良かったんだけど、今度はトライスター版ゴジラが進まない。それで最終的にはあと2本やる事になった。あと2本必要だって事が「VSスペースゴジラ」の準備段階で分かったので、次の次が最後になると。それで「VSスペースゴジラ」は色々な意味で自由な、間奏曲的な、楽しい映画作りをした。そういう作品を1つ挟ませてもらって、キャラクター的にはメジャーはすべて使い切った中でスペースゴジラを経て「VS デストロイア」にたどり着いた。
そして遂に、やっとトライスターゴジラが公開されました。トライスター版は映画としては面白いけど、ゴジラとしてはどうなんだろうという声が強かった。プロデューサーの立場としては、このままゴジラを作らないでいると、ああいうゴジラでいいのねって話で世の中にそのキャラクターが伝わってしまうという不安を感じました。だから、本当のゴジラはこうだ! というモノを早く出すべきだという事で、すぐ準備しておこうと考えました。東宝全体としても早く作ろうっていう結論になったので、「ミレニアム」をすぐに作ったという事です。
90年代後半にポケモンがアニメとして登場した事もあり、この時期ゴジラは家族で観る映画から、ゴジラが好きな子供たち、特撮が好きな人たちが観るジャンルムービー化していった。このジャンルムービー化していく気配っていうのはトライスター版が大人の映画として売っていたし、それを日本の子供たちが観るっていう気配が醸成されてなかったので感じていました。子供たちにとってゴジラは一方では大人のモノだし、一方では好きな人が観るモノっていう風になっていくというのは止むを得ないだろうって思っていました。それと続けてきたものを中断してからもう1回立ち上げるのは非常に難しくて、結局「ミレニアム」以降は、2本立てにしてハム太郎の助けを借りたりとかしました。
ミレニアムの時期にプロデューサーとして考えた事は、ゴジラを別々の設定・スタッフで1本1本作らせてもらえるのであれば、監督を中心としたスタッフとストーリー含めて、ゴジラの可能性を将来に向かって最大限挑戦しておきたいという事でした。これは早い時期から意識していました。
その1つが金子修介さんに監督をやってもらう事。金子さんに何で監督をやらせないのっていうゴジラファンの期待は当然あったし、僕もこのタイミングで、やってもらうのが一番良いと思った。同時にファンが喜ぶ<戦うヒロイン>を田中美里くんと釈くんでやって、最後は北村監督の「ファイナル ウォーズ」。これはそれこそ全キャラクター出すし、全カットがバトルだし、これ以上ないっていう所まで突っ走った。で、後は次の世代に、ゴジラ映画を作るタイミングと才能に期待してバトンタッチ、って思ったんです。
――ゴジラ映画を製作されて、一番大事にしていた事についてお教え下さい。
富山
ゴジラはハリウッドのモンスター映画とは違う。なんと言っても1作目のメッセージ、テーマが素晴らしい! そのテーマというのは4人のゴジラの生みの親、本多猪四郎監督と円谷英二特技監督と田中友幸プロデューサー、そして音楽の伊福部昭さんの心の中に共通したものだったと思う。それは反戦平和と核の脅威に対する警鐘。新作を企画する時はいつもこの思いをどれだけ継承しつつ作るか、を考えました。
これは田中友幸プロデューサーの教えなんだけど、テーマをヘソに例えて「映画のヘソは見え過ぎちゃいけない」と。そのヘソをいかに娯楽として表現していくかっていうのが、やっぱりゴジラを作る時に一番大切だと思います。
――28作目まで一貫している大事な核なのですね。
富山
田中友幸プロデューサーっていう人は凄い人で、ものすごく粘り強いし、自分の意見がしっかりした人。何を教わったかというと、プロデューサーはいついかなる時でも映画の事を考えていろと。食事中も、トイレに行ってても、夜眠っていても考えろって! 直接友幸さんから聞けたのが嬉しかったです。
当時、東宝映画の社長から会長に変わられていたのだけど、ご高齢なので毎日は会社に来られなくなっていて、僕がご自宅に台本の相談に行ったり、色々な報告しに行ったりしていた。だから会長としてはたまに撮影所に来て撮影現場を見るのが一番の楽しみだった。僕らもゴジラの生みの親がいてくれるわけだから、これはと言う時に答えてもらえる。例えば「VSデストロイア」の時にゴジラを殺していいかって言うのも、田中会長に「ゴジラ殺していいですか?」って直接聞きに行ける。そうすると意外とあっさりと「いいよ」って言うわけ。ただし「いいけど後に繋がるようにしてくれないとダメだ」と。
――それでゴジラジュニアが?
富山
そう。1作目のゴジラにある志村喬さんのセリフ、「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」。あれです。一貫してるんですよ、やることが。
ゴジラそのものが持ってるポテンシャルの大きさというのは、脚本家にしろ、監督にしろ、スタッフにしろ、ゴジラがいる事で普段は蓋をしているイマジネーションが動き出したり、飛んでもないイメージが広がったり、要するに何でも有りになってしまう破天荒さ。だからこそゴジラはこれからも新しい映画として生き続けるだろうって思います。
それと映画の楽しさって、ストーリーは忘れているけどそのワンカットだけ覚えてる、ってあるじゃない。一番凄いものだけが心の中に残る。そういうワンカットっていうのがゴジラ映画の魅力だと思う。だからたとえば「パシフィック・リム」。楽しい映画だったけど、怪獣をワンカットでフィックスで見せる画作りをしないんだよね。そこだけはマズイな〜と思った。やっぱり怪獣に見得(ミエ)を切らせるシーンを作ってくれないとね。
――一番好きな怪獣の話をお聞かせ下さい。
富山
ゴジラの場合、2作目以降のゴジラはそれぞれ映画スターとして大切に作られた。つまり主役としてキャスティングされているので、それぞれの映画のゴジラの良さっていうのがあると思う。でもやっぱり1作目でしょ。無から生まれた凄さ。
それ以外ではやっぱりワンカットの強さ。金星を破壊した怪獣が来ると予言されて、大空に金色のメラメラメラメラっていう光のシルエットが現れて、キングギドラ出現! あれ以上ないでしょ! SFだよね。もの凄いセンスオブワンダーを感じた。だからやっぱり男の子たちはキングギドラ好きだよね。
――一番好きなゴジラ映画、お奨めの作品についてお教え下さい。
富山
これはちょっと困る(笑)。
皆で一緒に作った映画は、それぞれ良い所、好きな所があるから比べるわけにはいかないです。ただ、いずれにしても1作目は別格。その後だと、やっぱり最初に観た「キングコング対ゴジラ」というのは印象として強い。ほんとに娯楽映画そのものだったよね。(俳優の)有島一郎さんの持っているユーモアのセンスを、(脚本の)関沢さんが台本で引き出してゴジラ映画に笑いを持ち込んだっていうのもすごく大きいし、映画の楽しさが全部あるよね、あの中に。
――しかもオリジナルへのオマージュも入っていて。
富山
そう。キングコングを連れてきたって事自体が、スターをアメリカから引っ張って来ているわけだからさ。ものすごい贅沢な話だよね。あれだって田中友幸プロデユーサーがちゃんと渡米して交渉しているわけだから。
思いが強かったのは、「VSデストロイア」。トライスター版にバトンタッチするためにちゃんと終わらせなきゃいけない。1作目のゴジラが表紙だとして、ゴジラの物語の終り、裏表紙を作るつもりでやった。だからオキシジェン・デストロイヤーを登場させたし、(第1作「ゴジラ」出演の)河内桃子さんに出ていただいた。思いをたっぷり詰め込んだ映画になりました。
それにあの時は大森さんが(兵庫の)自分の家で脚本を書いてるまさにその時に阪神淡路大震災が起きた。その当時、僕らが知っている中ではこんなに大きい災害はなかったわけで。崩れ落ちた高速道路とか、まるで怪獣映画のようだし、このままその年の年末に向かってゴジラ映画を作っていいのだろうかと考え込みました。大森さん自身も被災した人間としてゴジラ映画の脚本を書けるのか?どう思うのか?というためらいもあった。そういった思いを含めてたくさんの人の意見・気持ちを受け止めた上で、やっぱり作ろう思った。正月にゴジラを待ってくれている人は日本中にたくさんいるし、ゴジラが持っているヘソの部分について語るべきものは阪神淡路大震災の後でもあるはずだと考えた。実際に作った作品中には原発も出てくるし、メルトダウンも出てくる。図らずも次の2011年の大震災と重なっていくものがゴジラから出てきた。「VSデストロイア」は大震災を乗り越えて作ったという心の中の重さと、1作目に対する裏表紙を作ってゴジラの物語をいったん閉じるというストーリーへの思いが合わさって、大変な映画ではあったと思います。
――デストロイアではゴジラの死に方が非常に印象に残っています。
富山
体内で核が暴走しているゴジラ、という発想そのものが危機一髪のサスペンスだし、最後は悲劇で終わるだろうという予感が冒頭のバーニングゴジラを見た途端に伝わる。ゴジラのメルトダウンをフルCGで作ろうって言ったのは川北さんで、あのゴジラは非常に悲劇性と詩情あってやっぱりさすが川北さんって思いました。
1作目のゴジラが死んでいく時のオキシジェン・デストロイヤーで消えていく描写、そしてあの哭き声。見事に重なっていたと思います。
――印象に残っている役者の方についてお聞かせ下さい。
富山
1作目の志村喬さんと平田昭彦さんの2人の科学者に、ゴジラ映画そのものが描き出されていると思います。何て1作目は素晴らしいんだろうって改めて唸ってしまう。それと若く初々しい宝田明さんと河内桃子さんに映画そのものの瑞々しさを感じます。メインスタッフが成瀬組で固められているので、二人の登場場面で室内に差し込む夕陽の光線の心地良い事。名画を見ているようです。
そのお二人にそれぞれ出演いただいたことは大きな喜びでした。
ゴジラ映画は毎回ヒーロー、ヒロインが必要だけども、だれがヒロインとして出演してくれるかっていう事が大きい。ビオランテの時は田中スーちゃん(田中好子さん)がモスラ好きだっていうのを本人からも言われていたので、じゃあ「ビオランテ」にまず出てって、出演してもらった。とてもありがたかったです。大人になってもゴジラ好きっていう男優さんはいてくれるのだけど、女子はなかなかね。同じタイミングで小高恵美ちゃんに三枝未希というキャラクターでVSシリーズを通して出てもらえたのも、ゴジラ映画に女性を登場させたという意味でとても貴重だったと思います。あとは「VSメカゴジラ」の佐野量子さん。「VSメカゴジラ」の後で彼女は引退して武豊さんと結婚したんですよ。
僕は高校の頃からずっと競馬を観ていて競馬ファンなので、ユタカさんに紹介して欲しい!結婚式呼んで欲しい!みたいな(笑)。さすがにそこまで図々しく言わなかったけど。でも今でも年賀状貰うし、年賀状は武さんの個人事務所の年賀状でだから1人でニヤニヤしてます。
あとは星由里子さんや、水野久美さんにお願いしたら皆さん喜んで来てくださる。土屋嘉男さんにも出ていただけたし、佐原健二さんにも出ていただけたし。ゴジラってやっぱり凄いなっていう事ですよね。
――「キングコング対ゴジラ」の主演の高島忠夫さんのご子息お二方も平成版に出られていますよね。
富山
政伸くんはビオランテが銀幕と芸能界のデビューです。
そういう意味では政宏くんも僕が作った「トットチャンネル」で斉藤由貴ちゃんの相手役でデビューして、ゴジラもしっかり出てもらいました。お父さんの高島忠夫さんにも出ていただいたしね。男優はほんと三田村邦彦さんにしろ、それこそ峰岸徹さんもね。皆好きで出演してくれる人たちだし、永島敏行さんもそうだしね。
柄本明さんもゴジラが好きで、「スペースゴジラ」の柏原脚本のヒーローは柄本さんしかないって思った。そしてもう一人のアキラさん、中尾彬さんもにこにこ笑って出演して下さいました。こんなに俳優さんが楽しんでくれるのが、何度も言いますがゴジラの凄さなんですね。
以上前編