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俺とゴジラ

2014年12月7日

第二回 特技監督 川北紘一氏(前編)

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――早速ですが、ゴジラ映画には、どのような関わり方で参加されましたか?

川北 僕は東宝に入社してからずっとゴジラ作品に関わっていたので、3作目の『キングコング対ゴジラ』から参加しています。特殊技術課に入ってずっと特撮をやっていたので、そういった点では、ゴジラとの関わりっていうのは、自分で選んだわけじゃなくて、スタッフとして会社のラインナップの中で作品に入っていたね。そこら辺が最初のきっかけかな。僕はそこで撮影の助手をやっていて、撮影の助手から合成までをやっていた。昭和ゴジラの後半くらいから、特にゴジラをやっていた本数が多かったかな。

――『ゴジラ対ヘドラ』辺りですか?

川北 ヘドラでは、本編の助監督でいたんだよね。社員だったから、この作品では本編の助監督やって、撮影終了後に特撮やって。色々な仕事をやりましたね。

――『ゴジラ対メカゴジラ』の時は、フィンガーミサイルやディフェンスネオバリヤー等の武器とか様々なアイディアを出されたそうですね。

川北 メカゴジラの時は本編の助監督のトップセカンドだったかな。それで本編が終わってから特撮の方にいったんだよ。その時、宣伝部でメカゴジラの下敷きを作ったわけ。下敷きにメカゴジラが描いてあって、ここにはジェットがついていて、どんなミサイルが撃てて、こういう破壊力があるとか、首が回ってバリヤーを張るとか、宣伝部に頼まれて、そういう設定資料をずっと書いていたんだよ。助監督っていうのは大体そういう設定資料を作るのが仕事なんでね。

――その後、84年『ゴジラ』ですね?

川北 84年の『ゴジラ』の時は、先輩の中野昭慶さんが特技監督をやっていたんで、僕は宣伝部の基本的なコンセプトワークで、ポスターや予告編、スポットCMだったりを作っていたんだよね。

――現場もやれば宣伝もやるという。

川北 宣伝部に頼まれてね。それでメイキングを作ろうってなったのね。恐怖のゴジラを復活させるにはどうするか、今の技術でどのような恐怖のゴジラが再現されていくのか、そういうのをメイキングで見せようと。本編と特撮を両方見ながらメイキングを作っていたわけ。そこで随分色々なことが勉強になったなぁ。ゴジラは今までそういうメイキングって作ってなかったので、それに関しては僕が最初だと思うよ。

――84年ゴジラでは、サイボットゴジラがありましたね。

川北 でかいやつね、5mの。あれはエアシリンダとかを使って作ったんだけど、いかんせんスーツメーションのゴジラと似ても似つかなかったんだよね。今見てもわかるとおり、似てない(笑)。

――先日の「大ゴジラ特撮展」(2014年8月2日〜8月17日・池袋サンシャインシティ)で飾られていました。

川北 あれは当時、全国のイベントで持って行って、こんなでかいゴジラで撮影しているんだよっていうところを見せていたんだよね。嘘っぱちだったけれども(笑)。

――84年『ゴジラ』の時は、スーパーXや自衛隊兵器関連のデザインも手掛けられたのですか?

川北 あれはデザイナーの井上泰幸さんがやっていた。俺はあまり好きじゃないのよ、鉄兜みたいなデザインがね(笑)。そうは言いながらも東宝のスーパー兵器と言われるものは歴代ずっとあるわけでね。メーサー砲とか地球防衛軍から始まって歴代の色々な兵器がいっぱいあるんだよね。そういうものを踏襲して84年『ゴジラ』の鉄兜のスーパーXがあるのよ。その後、俺がやった『ゴジラvsビオランテ』でもスーパーX2が出てきたり、そういうのが東宝らしいなって思うね。

――スーパーX2は、ゴジラの放射熱線をはね返すっていう設定がすごく面白かったですね。

川北 前が開いてな。

――川北監督が関わった平成ゴジラシリーズといえば、『ゴジラvsビオランテ』でビオランテがゴジラに向かって移動するシーンがすごく印象的でした。

川北 根の張った植物怪獣が動くっていうのはないんだけど、這っていくとか、そういう事は出来ないかなってずっと思っていたんだよね。だから、最後の切り札であれが動いたら圧倒的だろうなと。でも撮影は一発勝負の1カットしかやってないんだよね。

――以前、何かの記事で、スタジオのキャットウォーク(天井の足場)に現場のスタッフをありったけ配置して、一斉に移動しながら糸で操ったと読みましたが。

川北 皆、天井についちゃって、スタッフが誰もいなくなったんだよ。だから現場にはキャメラマンと俺と何人かしかいなかったな。

――しかもキャットウォークですと、その支えやら配線やらが無数にあるから、そこをよけながら移動しつつ糸を操らなければならないという大変さもありますよね。

川北 あれはそれだけの価値があったんだと思うよ。俺が特技監督をやったゴジラっていうのは、人が思いもつかないような、あっと言わせるような映像を連続でやりたいと思っていたから。だいたい先が読まれちゃうからさ。そうじゃなくて、あれ?こうなっちゃうの?って驚きを与えたい、そういうのがいいなって。

――『ゴジラvsキングギドラ』のメカキングギドラがゴジラを掴むマシンハンドもすごく印象的でした。

川北 捕獲装置ね。あれも大変だったなぁ。

――それに完成して間もない都庁のある新宿副都心を決戦場にしていました。

川北 そう。あれはね、当時のビルとしては日本で一番高かったから、そこを舞台にしようと最初に決めていてね。メカキングギドラって、普通のキングギドラにプロテクターをつけてやっていたから、すごい重量になっちゃって。だから本番になるとピアノ線なんかが軋んじゃって悲鳴あげて、撮影時にキャメラがその下にあって、メカキングギドラが落ちてきちゃってさ、あれは何百キロもあるから。翼が当たっただけだから、まだ大丈夫だったけどね。でもあの当時、キャメラ2台くらい潰しているし。昔、東宝にプールスタジオがあったでしょ?そこのプールにいかだを組んで、キャメラがゴジラの目線のところにつけて、ゴジラをいかだで追っかけて撮るために、キャメラマンがいかだに乗っているわけよ。それをトラックで引っ張るって仕掛けでね。フロートがついているんだけど、不安定なんだよ。それがやっぱり撮影している時にがこん!って止まって、その反動でキャメラが水の中にばしゃん!って入って、パーになっちゃって。それが2度あったからね。アリフレックス(撮影用35mmカメラ)の新しいやつと古いやつ両方。とても高いんだよカメラって。そんなこと言ったら一番大きなアクシデントは、ある作品で第7ステージが燃えた事だな。あれは助監督のチーフで入って、異常気象で山が枯れるシーンがあってね。山のセットの下にバーナーつけて乾燥させて、森林火災てことで自然発火させて、それにガソリンまいて一斉に火をつけたらバアってセットごと燃えちゃったの。まあ、そういうのは仕事中のアクシデントだからしょうがないよね(笑)。

――ゴジラ映画で一番印象に残っている事は何でしたか?

川北 一番印象に残っているのは、僕が入社した時、1962年かな。その時は本多猪四郎監督が大監督という存在でね。それが1970年かな、一緒に『流星人間ゾーン』という作品を撮ったわけ。その時にゴジラ登場編をやったんだけど、俺が特撮で、本編が本多さんなの。本多さんとまさか相対して仕事出来るなんて思ってなかったから、すごく感激した。そこがターニングポイントだったかな。それで本多さんには礼を尽くしてセットをいっぱい作ったりしてね。

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――特技監督として、特に苦労した点や楽しかった点をお聞かせください。

川北 苦労がない作品なんてないんだけど、やっぱりその苦労が報われた時だよね、楽しいのは。東京国際映画祭がオーチャードホールであって、『ゴジラvsキングギドラ』を公開した時、お客さんがずらっと劇場に並んで取り囲んでて。それで映画が始まる時の舞台挨拶の拍手がすごくて。ああいうのを見ると、そういう苦労も全て吹き飛んじゃって、よし、次もちゃんとやらなきゃって。やっぱり感激もんだよね。

――現場の喜びとはとは別のタイプの喜びですよね。

川北 それはなぜかと言うとね、完成までは俺たちの作品だった。でもそこから先は俺たちの作品じゃないんだよ。お客さんのものになってバトンタッチしちゃうから。その作品が一人歩きしていくわけだから。ただ東京国際映画祭って10月だったかな?そこで封切った時にはまだ未完成なんだよな。

――富山さんもおっしゃっていました。

川北 時間がなくてさ……。だからプリントをどこまで焼くんだって営業部に相談して、そこまでしか焼くな、この9カメと何カメは残しておけって指示して。本当は俺の権限じゃそんな事できないんだけど。全部営業部に頼んで合成し直してギリギリで差し替えたりしたんだよな。

――特技監督をされている中で、特にゴジラで一番大切にしていた事は何になりますか?

川北 やっぱりスタッフだよね。自分の才能に負うところもあると思うけど、やっぱりスタッフワークがちゃんとしてないと物事が出来ないんだよ。俺の時はスタッフの年齢が一番若かったんじゃないかな。学生とかも含めてね。学生たちとやる時は、ただの手足じゃなくて、自分たちがディレクションするぞっていう心構えをちゃんと植え付けていかないと楽しくないし、自分たちがこの先どこを目指していくのかというアイデンティティを持ってちゃんとやりなさいって言ってたね。それだからかその後、技師として活躍している人も結構いるし。

――川北門下生が、多く羽ばたいていらっしゃるのですね。

川北 ああ、いっぱいいるよ。やっぱりそういうことが大事なんだろうと思うし。俺がいくら言ったって誰もついてこないんじゃ、仕事になりゃしないんだから。ただ、今は違うんだよ。今はCGとか自分一人で出来ちゃうからさ。だから人と話をしないんだよ。俺も学校行って教えているけど、生徒たちは人と話してるんじゃなくてコンピューターと話してるんだよ。それで映像作っているんだよ。寂しいとこあるよなぁ。

――CG業界へ行く方も増えましたからね。

川北 人と話さないで自分だけでやるでしょ。だから緊張感がないんだよな。俺の時はフィルムが生でガーっと回るから一瞬のその瞬間を切り取るっていうのがあるじゃない、そうじゃないんだよな。今はビデオだから延々回しちゃうわけ。後処理で何とかしようって思ってるんだよ。だからそれはダメだって言っているんだけどな。それは音声もそうなんだよな。

――昔のミックスって一発勝負だったから、その時代のミキサーの方ってすごい技術を持っていますよね。

川北 そう。やっぱり自分の狙いとか緊張感とかを伝えないと。それが大事なことなんだよ。俺は古い人間だから余計そうかもしんないけど。

――演出面で大事にされていた事は何ですか?

川北 いま話した若者の話に近いんだけど、現場の演出って役者さんに演技つけたり、怪獣を動かしたりする演出もさることながら、スタッフとのやりとりも演出なんだよね。そして編集に対するイメージを持つ事なんだよ。そこを考えて撮らないとうまくいかない。俺は編集が好きだったから、人に任せないで全部自分でやっていたけど。自分でやると記録しなくてもフッテージを覚えているんだよ。編集していくと、じゃあ次のカットのここら辺の素材がいいかなって、それでOK素材を持ってきてチョイスが出来たり、自分でイメージが固まっていれば、選択肢がちゃんとあるんだよ。ただ現場の演出が第一で、第二の演出が編集ね。



以上前編

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