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俺とゴジラ

2015年5月1日

第三回 特技監督 中野昭慶氏(前編)

――中野監督は東宝に入社した頃は、ゴジラをご存知なかったとか。

中野昭慶(以下、中野)
昭和34年、入社試験の面接で、プロデューサーの藤本真澄さんから「キミはゴジラのことをどう思う?」と聞かれて、ゴジラのことは知らなかったので素直に「ゴジラって何のことですか?」って答えたら、「キミはゴジラも知らないのにここに来たのか!」と言われて。「この面接はもうこりゃ駄目だな」と思ってね(笑)。当時は文学青年だったんで、監督の黒澤明は知っていたけれども、ゴジラのことは本当に知らなかったんだよ。でも続けて藤本さんが「キミは面白い奴っちゃな。だいたい映画を勉強してきました何て言う、青臭い奴に限って役に立たない。なまじ中途半端に勉強しているから、本当の映画のことを知らないんだよ」とね。それから「東宝は、特に医者のライセンスを持っている人材が欲しいんだ」とも言っていたね。

――東宝に入社して、幾多の作品で監督助手を務めますが、東宝創立30周年記念作でシリーズ3作目の『キングコング対ゴジラ』(62年)で、初めてゴジラ映画を担当されました。

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中野 当時、自分は助監督会の一員だったんだけれども、助監督の皆が特撮映画の担当になることを嫌がってね。入社した頃は自分も特撮には全然興味が無かったけれども、『キングコング対ゴジラ』の直前に就いた、同年作の『妖星ゴラス』(62年)は、円谷(英二)さんからの指名があってね。監督からの指名は“金科玉条”と言って、受け手にとってとても名誉なことであるから絶対に断れないものだったんだよ。『妖星ゴラス』の後は、成瀬巳喜男監督の『放浪記』(62年)に就くことになっていて、自分の映画の勉強のためになるなと思っていたんだ。ところが『妖星ゴラス』の時の仕事振りが良かったのか(笑)、続く『キングコング対ゴジラ』でも、円谷さんからお声がかかっちゃった…。

――ゴジラ映画の担当は、青天の霹靂だったんですね。

中野 そう。成瀬組に就くのはローテーションで決まっていただけに「えっ、そんなバカな」と思ったけど、「どうせ特撮映画を担当するのなら映画のメカニズムを可能な限り習得して、将来のために勉強してやろう」と思い直してね。

――『キングコング対ゴジラ』は、喜劇タッチの明るい作品となりましたね。

中野 この作品では、第一作の『ゴジラ』(54年)や『ゴジラの逆襲』(55年)にあったシリアスなムードが一変したけれども、これは脚本を担当した関沢新一さんの功績と言えるだろうね。たぶんこの時の脚本が非常に良いものだったから、関沢さんはこの後のゴジラ映画を引き続いて担当されたんだろうね。

――第一作の『ゴジラ』は、この時にご覧になったとか。

中野 この時の参考試写で、第一作の『ゴジラ』や『キングコング』(33年)も観たけれども、そのプリントがおそらく全国各地を回り、何百回もの上映を経たものだったから状態が全然良くなくてね。『ゴジラ』は、本多(猪四郎)さんや円谷さんの、特撮を生かした作品を新たに生み出そうとの努力の跡が伺えたんだけれども、SF的な部分は当時の自分にはよく分からなかったね。

――第一作『ゴジラ』は、マスコミからゲテモノ映画と呼ばれていましたね。

中野 そうそう。でもマスコミだけじゃなくて、都会的な映画を多数作っていた撮影所内も実は体質は古くて、ゲテモノ映画と呼ばれていたよ。だから円谷さんの作る特撮映画がどんなにヒットしても、ゲテモノ映画の名称は必ず付いて回っていたね。

――でも、そのゲテモノと言われていた特撮映画は、数多くのファンを獲得し、時代を超えて支持されることとなりました。ゴジラ映画はシリーズ化され、引き続き製作されることとなりますね。

中野 ゴジラをはじめとする特撮映画をコンスタントに作り続けられたのは、邦画各社の中でも東宝だけだったと言えるだろうし、ゴジラ映画と戦記映画は、円谷組の作品の中でも大きな二本柱であったことは間違い無いね。作品を作り続ける中でスタッフの層も徐々に厚くなって、手掛けたその技術も次々と蓄積されていったわけだしね。

――『キングコング対ゴジラ』の、ゴジラについてのエピソードは?

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中野 『キングコング対ゴジラ』以前の着ぐるみゴジラの口の開閉は、ワイヤーで顎を動かして表現していたんだけれども、この作品ではゴジラの頭部にラジコン駆動のメカを仕込んで、初めて外部からコントロール出来るようにしたんだ。このメカニックは、特美の高木(明法)君が担当してくれてね。だけど、あんまり現場で口をパカパカ動かしていたので、鳴き声を付けるのが大変だったという記憶があるよ。

――円谷英二特技監督ならではのゴジラ演出は?

中野 確かこの時だったかな?円谷さんは怪獣対決のシーンにスポーツの殺陣を採り入れようと提案されてね。『キングコング対ゴジラ』ではコングに一本背負いをやらせたり、『怪獣大戦争』(65年)ではゴジラにボクシングのポーズをとらせたりしてね。きっと劇場の子供たちは、それらのシーンに大喜びで、こういうのがゴジラ映画をシリーズ化させる大きな原動力となったんじゃないのかなと思うんだけれども…。

――円谷監督のゴジラの演出では、『怪獣大戦争』(65年)のゴジラのシェーが印象に残りますね。

中野 これは当時の撮影所長をやっていた柴山さんの注文だったと記憶しているよ。昼食か何かの時に、「今、シェーというのが漫画で流行っているんですよ」と柴山さんが円谷さんに話されてね。で、円谷さん、その後に自分のところに来て「キミなぁ、シェーってどうやるんだ?」と相談されたんだけど、自分を含めた特撮スタッフの誰もどっちの手が上なのか、正式なシェーのポーズがわからなくて。結局、ゴジラを宙に浮かして手足の左右を入れ替えて、何回もシェーをさせたんだよ。こういう時の円谷さんは、実に観客へのサービス精神が旺盛だったね。

――この頃のゴジラ映画の魅力についてはどう思われていましたか?

中野 適当に怖がって、適当に笑って、適当に不思議がって、様々な映画の面白さの要素を持っている、面白さのお手本みたいなものだったね。欲を言えば、これに推理要素の謎解きが入ってきたら、もっと面白くなったんじゃないのかなと思っていたね。

――シリーズ第7作『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』(66年)から、円谷さんに代わって、有川貞昌さんが二代目の特技監督になられます。

中野 只でさえ忙しいこの当時、東宝の上層部から「特撮作品は年間、6本の体制をとってくれ」とメチャクチャな注文がきてね。円谷さんは、自ら円谷特技プロダクションを立ち上げたりして大忙しだったので、「円谷さんの他に特撮監督を新たにデビューさせましょう」と僕が提案してね。それで有川さんがゴジラ映画を担当することになったんだよ。有川さんは操演を多用したカマキラスやクモンガをゴジラの敵怪獣として登場させたりして、これまで円谷さんが手掛けてこなかった技術に果敢に挑戦していたね。

――シリーズの第9作『怪獣総進撃』(68年)は、当初は数ある東宝怪獣映画の総決算作として製作されました。

中野 この時期には映画の世界も斜陽の時を迎えてね。ゴジラ映画の成績も徐々に下がっていたので、一旦ゴジラ映画を終わらせようということで、怪獣の忠臣蔵をやることになったんだね。でも公開してみたら、夏場の興行にもかかわらず思いもかけないヒットを記録して、結局、怪獣映画は継続して製作されることになったんだよ。この作品では、クライマックスの富士山麓での11大怪獣の決戦のシーンが思い出深いんだけれども、熟練の特撮スタッフの手によって、これといったトラブルも無くこなしていたのが印象に残っているね。

――この後、特撮班の中心であった円谷英二さんが逝去されますね。

中野 円谷さんが亡くなった時は、僕は体調を崩した円谷さんに代わって大阪万博の三菱未来館の仕事をしていたんだけれども、そのショックははかり知れないほど大きかったな。それに円谷さんを失って、優秀な特技スタッフのこれからの仕事のことを考えると、けっこう暗澹たるものがあったね。円谷さんの死をきっかけにしてか、特技課は廃止され、社内は独立採算制を導入して契約社員は次々とリストラされる、そんな悲惨な状況になっていったんだ。

――その状況の中で製作されたのは、低予算を前提とした『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』(69年)ですね。

中野 当初、田中(友幸)プロデューサーからこの作品の話を聞いた時には、多大な予算をかけて豪華な作りだったこれまでのゴジラ映画を作ってきた自負から、「これは無理ですよ」と言ったんだけれども、どうしてもと懇願されて、結局、スタッフの費用を減らした、本編、特撮の両班が一体となって作品を作る一斑体制を提案したんだよ。でも、この体制がこの作品でうまくいってしまったので、以後もしばらくこの一斑体制が続くことになったね。

――中野監督は、この作品から特撮の演出を手掛けられることとなりますね。

中野 本多さんからは「自分は特撮のことは分からないから、よろしく頼むね」と言われて、ゴジラ、ミニラ、ガバラの三怪獣の演出を担当したけれども、もちろんゴジラ役の中島さんは、着ぐるみ役者としてベテラン中のベテランだったので、打ち合わせも演技も何も心配はいらなったね。

――続く『ゴジラ対ヘドラ』(71年)で、中野監督はゴジラ映画で初めて“特殊技術”としてクレジットされます。

中野 東宝としては、かつてのダイヤモンドシリーズ(1時間以下の併映用映画の名称、つまり低予算ということ)の規模でなら、ゴジラ映画を続けても良いということになってね。監督には坂野(義光)さんを新たに立てて、当時の社会問題であった公害をテーマにして。シナリオに荒野という舞台設定が出来たのもこの時かな?予算が無ければ荒野を舞台にするしかないんだよね。でも、日本の何処に荒野があるんだよって!(笑)。それから“特殊技術”としてクレジットされたとのことだけれども、『クレージーの大爆発』(69年)や『激動の昭和史 沖縄決戦』(71年)でも同じようにクレジットされていたので、これといった感慨は無かったね。

――特撮班の長となったプレッシャーは?

中野 それはもちろんありましたよ。さっきも言ったけれども、優秀な特撮スタッフをどうやって路頭に迷わせないようにしようかとか、実際に作品の予算を組んでみたら製作費が全然無いなんていうことも多々あってね。「これでどうやって作品を作るんだよ!」って(苦笑)。この後の1本1本が危機感やジレンマとの戦いだったけれども、なまじ映画製作の黄金期を肌で知っているだけに、ちょっと貧乏くじを引いちゃったかななんて思ったりもしたね。

――『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』以降のゴジラ映画は、テレビアニメなどとカップリングされた「東宝チャンピオンまつり」の枠の中で上映されることとなるわけですが、製作に当たっては、特にゴジラの敵怪獣の創造に腐心されたのでしょうね。

中野 そうそう。毎回、無い知恵を振り絞っていろんなことを考えてね(笑)。ヘドラはベテランの井上泰幸さんがデザインしてくれたけれども、『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』(72年)の時には、外部の知恵を入れたほうが良いとのことでね。基本のデザインをグラフィック・デザイナーに発注するとのことで、田中プロデューサーから「講談社の水木さんにお願いしました」と聞いたので、てっきり漫画家の水木しげるさんかと思っていたら、これが同じ名字の水木違いで、イラストレーターの水氣隆義さんだったんだね。

――他に特に苦労された点はございますか?

中野 それは新怪獣の表面の色だね。『ガイガン』の頃だったかな、科学雑誌の「ネイチャー」に、恐竜は極彩色だったとの論文が載っていてね。太古の地球はものすごく高熱だったので、それまで信じられていたダーク系の体色では生きていくことが出来なかった筈だとね。で、それを読んで「コレだっ!」と思って、派手に行こうと思って最初に頭に浮かんだのが“赤”色で、それを美術スタッフに頼んだら「中野さん、気が狂ったんですか?」(笑)と言われて。僕はカルピスの包装紙みたいな怪獣を作ろうと思っていたんだよ。でもね、今思えばこれをやっておけば良かったのかなあと、ちょっと後悔しているところもあってね。あれをやったら怪獣デザインの方向性もちょっと変わったことになったかもしれないね。

――それから、特撮のセットも少なめですね。

中野 本当に予算が無くてね。だからと言って劇場に来るお客さんに失礼でしょ。予算が無いから申し訳ありませんとは言えないからね。少ない予算の中でも、『ヘドラ』の工場街や電極板のセットをはじめとして、『ガイガン』の都市セットや世界子供ランド、『ゴジラ対メガロ』(73年)のダムとか、僕がよくインタビューで答えている“一点豪華主義”で、このセットにだけは予算を注ぎ込んで見せ場をここに集中させようと考えたよ。だからそのシーン以外は、たいてい荒野になるんだよ(笑)。

――この頃の作品では、ラストシーンでのゴジラの後姿が哀愁を漂わせて良いですね。

中野 「東宝チャンピオンまつり」のターゲットは、親と一緒に観に来る子供たちで、僕は子供の感性を何かくすぐるようなものが欲しくてね。それとこの頃のゴジラを僕はヒーローとして捉えていたんだ。敵怪獣との戦いに勝利しても、少々物足りないような雰囲気を残して海に消えて行くから次回作への期待も膨らむわけでね。だからこそラストシーンの去り行くゴジラのカットは、何としても余韻を残したいからロングの引きにして、どことなく哀愁を漂わせたムードになるようにしたんだよ。

――『ゴジラ対メガロ』の頃には、テレビの『流星人間ゾーン』(73年)でゴジラもゲスト出演を果たしました。

中野 『流星人間ゾーン』は、第二次の怪獣ブームに便乗したテレビ作品だったけれど、この頃は低予算にはすっかり慣れていたので、ちっとも驚かなかったよ。この作品では僕も一日で100カットみたいな、テレビならではの早撮りを覚えたね。ゴジラのほかにキングギドラもゲスト出演させたけれども、キングギドラの着ぐるみはボロボロの状態で、「操演が大変なキングギドラをテレビに出すのか!」と演出しながら思っていたよ。

――そういえば、中野監督が担当された「東宝チャンピオンまつり」のゴジラ映画は、アメリカではケーブルテレビなどで、何度も繰り返し放送されて好評を博したとのことですね。

中野 そうそう。だからメガロやジェット・ジャガー、チタノザウルスなんかは日本よりもアメリカの方が実にウケが良くてね。あっちのイベントなんかに行くと、本当に熱狂的なファンが大勢いてくれて、きわめて静かに応援してくれる日本のファンとの温度差にびっくりするよ。



以上前編

取材日:2015年4月2日(木)
取材:中村 哲(特撮ライター)

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